永遠という光その輝き

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東林院の小豆粥で初春を祝う会に出た精進料理。

永遠を夢見ていたという歌詞の歌があるが、美しいという話で揉めることで様々なことが起きた。美しいものを眺めたり称賛することで小世界というものがあったのだが、自分の姿は違うじゃないか!!と恐ろしい声が上がる。彫刻など形ばかりで美しいか否かを問われるものがあるのだが、人というものがそんなことを問われて平気なわけもないことは初めからわかりきっていた。形のないもので美しいものとしたのは、それでだった。続いたのは、匂い、香りだった。それでも様々なことがあるには違いないのだが。吐き出す気や声など体から生じるものとして歌が細分化した。結局は自分の体だということは、何度説明しても理解されなかった。形のないものから始めたことで体というものを理解しないようだった。実は誰も費やしていないということがある日明らかになる。自分の体というものを理解しない人々。岩になって歩いているしかないという一つの事実。誰に決まっているよと簡単にいうが、体はそんなことを言っても誰と変わることもない。介護が殴りつけた岩で歩くことはできるが、不幸感というものは想像以上だ。救いと言って人間を殺しただけという惨状が如実に出ている。救いと嘘を掲げた貧乏は、何十年も前に殺したと言われるほど人身売買をして雲隠れしている。貧困の怖さというものだ。人間をバラバラにしてでも売ったのだという。光を!という異国の辺境の地で宗教に興じて叫ぶ僧が如き話ばかりが続いた。光という物理的な太陽の光のサマが時に美しく輝くことを、或いは救いと呼んだのかもしれない。貧困の悪戯は、今もたやすく木漏れ日を目を奪うほどに美しくキラキラキラキラと輝かすことができる。自分を愛する約束を忘れ去ったものたちだ。捨てられた木漏れ日を本当はこうしたら綺麗なんだけどと言って、キラキラキラキラと美しく輝かせる。キラキラキラと光るものたちを眺めながら、感慨にふけるのだ。変わることなんかないのだ。誰も。人間というものは、そうじゃないのだ。

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